【レキシクロニクル】近藤勇はどんな人物だったか?(ゲームから学ぶ歴史)

ゲーム攻略

近藤勇(こんどういさみ)は、実在の故人です。生没は【1834年~1868年(享年:35歳)】と言われています。

史実上の性別は「男性」。

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近藤勇という人物

新選組の局長

公武合体(幕府と朝廷の連携を密にして政治をしよう、という考え)を理念として据え、幕府に仕えた武士の1人です。

天然理心流四代目宗家としても知られており、剣術に長けていました。

幕府が滅びるまで戦い続けましたが、最終的には斬首され、その生涯を遂げます

京都を守るために「浪士組」に加入する

近藤勇が活躍した時代の日本(江戸時代)は、幕府(京都)が政治の中心。

朝廷とは開国の是非について意見が違っており、国内の政治がうまくいっていない様子でした。

対立していた尊王攘夷派(天皇に政治をさせて、外国を追い出せという考えの派閥)の活動により、京都の治安は、非常に悪かったと言われています。

そんな中、「浪士組」という京都の治安維持部隊を清河八郎が集めます。

その募集に参加したのが、近藤勇たち。

当時、近藤は「試衛館」という道場を、天然理心流宗家四代目として運営していました。

清河八郎の裏切りに背き、京都に残る

さて、京都の治安維持に勤しむ浪士組でしたが、ある日、浪士組を結成した清河八郎が、幕府を裏切ります

「我々の真の目的は、尊王攘夷にある」と言い、裏切る武士を集め始めるわけです。

これに納得がいかなかった近藤と芹沢を筆頭とした隊士は、清河の呼びかけに応じず、京都に残ることに。

この京都に残った【元】浪士組は、のちに「壬生浪士組」という組織に変化、引き続き京都の治安を守ることになります。

なお、勘違いされがちですが、壬生浪士組の筆頭局長は芹沢鴨です。

新見・芹沢の死後は、新選組唯一の局長となる

最初は知名度の低かった壬生浪士組ですが、地道に活動をするにつれて評価され「新選組」という名前をもらうことになります。

設立当初の新選組は乱暴者が多かった組織でもありました。

腕っぷしが強かった分、血の気が多い隊士が多かったようです。

そこで、新選組の名前をもらってすぐのころ、近藤勇と土方歳三は、副長の新見錦を襲撃し、自殺させます

なぜこのようなことをしたのかというと、新見は隊士の中でも特に乱暴グセがひどく、隊務を怠って酒をあおり、民家から隊費の名目で金を恐喝していたなど、素行不良が目立ったからです。

芹沢鴨についても、のちに土方歳三を主とした隊士らが襲撃し、斬殺したとの記録が残っています。

壬生浪士組の元局長ふたりが死亡したことにより、新選組は近藤勇一本の局長体制になったのです。

池田屋事件では、朝廷と幕府から働きを認められる

一本体制になったあとも新選組は、京都での治安維持活動を続けます。

治安維持活動を行なっていた、とある日のことでした。

不審者を捕らえ拷問にかけたところ、「中川宮邸の放火」「天皇を拉致」といった計画を立てている者がいる、という情報を得ます

この計画を知った新選組は、実行犯たちが潜んでいる池田屋に突入して、未然にこれらの計画を防ぎました。

これが世に知られる「池田屋事件」

治安維持活動が大いに評価され、新選組は、朝廷と幕府の両方から感謝状と褒賞金をもらったそうです。

時代が変わっても幕府が滅びるまで戦い続ける

幕臣として京都の治安維持に貢献した新選組ですが、時の流れは残酷でした。

大政奉還や王政復古の大号令をきっかけに、幕府は滅亡することになります

幕府滅亡後も、旧幕府と新政府(朝廷)側のいざこざが絶えず、「鳥羽伏見の戦い」や「戊辰戦争」が勃発

当然、これらの戦いに新選組(このころは改名し、甲陽鎮撫隊)も参加しますが、朝廷側の破竹の勢いは止まらず、敗戦を重ねます。

最後には、近藤勇は捕らえられ、京都の三条河原でさらし首にされ、その生涯を終えたそうです。

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