【レキシクロニクル】原田左之助はどんな人物だったか?(ゲームから学ぶ歴史)

ゲーム攻略

原田左之助(はらださのすけ)は、実在の故人です。生没は【1840年~1868年(享年:29歳)】と言われています。

史実上の性別は「男性」。

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原田左之助という人物

新選組の隊士。組長を務めたこともあります。

もとは武家奉公人の家に生まれ、公務を行っていましたが、自身の性格と合わないと思ったのか逃亡。

その後流れ着いた先で近藤勇と会ったことで、左之助の新選組としての人生が始まります

人となりですが、気が短い性格とは裏腹に、容姿端麗で美男だったそう。

最終的には近藤の元から離れ、長倉新八と靖兵隊を結成(のちに靖兵隊を抜けて行方をくらまします)

旧幕府のために戦い続けましたが、上野戦争の傷が原因でその生涯を終えたとされています。

破天荒で、公務に合わない性格だった

左之助は、伊予松山(いまの愛媛)で、武家奉公人の生まれ。

左之助はもともと気が短い性格でした。

酒を飲んで酔っ払ったことを目上から注意されたのに口答えしたり、上官と喧嘩して切腹未遂を行ったり、裸で太鼓を担ぎ鳴らして回ったりなど、奉公人には珍しい破天荒な性格だったと言われています。

ほどなくして、公務が合わなかったのか、左之助は奉公人の仕事を放棄し行方をくらましました。

流浪先で槍を習い、免許を得る

さて、公務から解き放たれた左之助ですが、最初に向かったのは大阪です。

どういう流れでそうなったのか定かではありませんが、大阪で谷三十郎・万太郎兄弟(槍の名手)の道場に入門し、槍の流派を習うことになりました。

このとき習った槍の流派を種田流といいます。

修行を終えて免許を与えられた左之助は、次に江戸へ向かうことにしました。

いろんな場所に行っては、転々としていたため、当時どこに住んでいたかなどの記録は残ってないそうです。

そして流れ着いた先で出会ったのが、近藤勇

時期的に、浪士組(京都の治安維持部隊)の募集直前のことだったとされています。

京都に残り壬生浪士組として活動、のちに新選組隊士となる

もともと、浪士組では、近藤の下についていた左之助。

清河八郎の裏切りの際にも、近藤の下に居続けることを決意します。

壬生浪士組のときに、清河八郎の暗殺に参加もしました。ただ、これは失敗に終わっています。

新選組時代には、芹沢鴨の暗殺に沖田総司らとともに参加

ほかにも、長州のスパイをみつけて殺害するといったことも行っており、直感や嗅覚にすぐれていたのがうかがえます。

池田屋事件では土方歳三隊に所属し、活躍したという記録が残っており、多額の賞金を手に入れたそうです。

近藤勇と考えが合わなくなり、新選組(甲陽鎮撫隊)を脱退

このころの左之助というと、近藤勇との意見が合わなくなっていたようでした。

切腹を覚悟で永倉新八・斎藤一らとともに、近藤勇の「非行五ヶ条」を示したとのこと。

鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いまでは新選組(当時は名を改め、甲陽鎮撫隊)として戦いましたが、江戸に敗走あと、近藤の発言に激怒し、袂を分かちます

これは、左之助と新八が「旧幕府軍のために会津藩に行って戦おう」と近藤に言った際、「家臣になるなら同意してもよい」と言ったためとされています。

左之助の性格上「一緒に戦っていたつもりなのに、家来になれというのは、どういうことか」と思ったことでしょう。

左之助と新八は、これが原因で甲陽鎮撫隊を抜け、新たに靖兵隊を結成しました。

ただ、左之助は何を思ったのか、途中で靖兵隊を抜けています。理由は後世に語られていません。

その後も、旧幕府のために戦い続けた左之助ですが、上野戦争の際に負傷し、その傷が悪化したため、神保相徳の屋敷で死亡したとされています。

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