【レキシクロニクル】足利義政はどんな人物だったか?(ゲームから学ぶ歴史)

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足利義政(あしかがよしまさ)は、実在の故人です。生没は【1436年~1490年(享年:55歳)】と言われています。

史実上の性別は「男性」。

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足利義政という人物

室町幕府の第8代征夷大将軍

幼い頃から兄の跡をつがされ、「身内に干渉されながら政治を行った将軍」として知られています。

在職中は、常に守護大名との対立に悩まされました。

守護大名や身内間の対立は後に「応仁の乱」に発展

11年にも及ぶ、幕府の内乱が続くことになります。

そんな彼ですが、応仁の乱が落ち着いたあとも、政治の世界から離れようとしなかったようです。

他方で、文化面に多大に貢献してきた人物としても知られています。

かの有名な京都にある銀閣寺は、義政が作り始めたものです。

寺の僧侶として生きるはずが、父を暗殺され後継者にされる

義政は、もともと5男坊だったため、将軍候補ではありませんでした。

出家して、寺の僧侶として生きていく人生のはずだったのです。

ところが、父の義教が、嘉吉の乱で暗殺されます

当時の、幕政は一枚岩でなく、父の義教は守護大名と揉めていたからです。

父の義教が亡くなったあとは、兄の義勝が将軍をしてましたが、兄も若くして亡くなってしまいました

これらの事情により、引っ張り出されたのが義政です。

側近に干渉されながらも、政治を行う

義政は14歳の頃から、政治の世界へ入ります。

14歳の時点で、側近や身内による政治介入があったようです。

このころの世の中はというと、守護大名に家督争いが頻発していました

義政は、この争いを解決するために、積極的に、介入していたとのこと。

義政の政治は幕府の収入を増やした

さて、当時の幕府の財政は、極めて厳しいものでした。

民衆による土一揆が起こり、取り立てができる状態ではなかったからです。

そんな中で、義政は税制を改め、財政を回復させていったそうです。

ほかにも、日明貿易(勘合貿易)を復活させて、貿易面での収入も増やすよう、尽力しました。

さらに、寺や大名のところに直接赴いて、贈答品を受け取り、それを政治のために使ったと言われています。

義政は、「毎日、寺や大名のところを回ってもいいよ!」と側近に言っていたようですね。

将軍職を譲るも、政治には口を出す

その後、弟に次期将軍を任せようとしたところ、子の義尚を将軍にしたいと思っている派閥と、争いが勃発。

幕府を東軍と西軍にわけて争う、応仁の乱が始まってしまいます

結局、応仁の乱は、幕府の権力が失墜したいま、やる価値がないものとして、終了しました。

当時の年号をもじって「ひとよむなしい(1467)応仁の乱」とはよく言ったものです。

最終的に、義政は息子の義尚に将軍職を譲って、隠居

ただ、彼にも思うところがあったのか、隠居後も政治の実権を持ち続けたそうです。

文化面では大きな功績を残す

話は変わりますが、義政といえば、東山文化の確立者としても有名です。

お抱えの庭師や絵師を抱えて、武家、公家、禅僧の文化を融合。

その集大成として作り始めたのが、銀閣寺ですね。

東山文化は、具体的には「わび、さび」を重視するもの。

貧困と孤独といった閑寂のなかに、奥深さや豊かさが感じられるといった、考え方だったそうです。

政治から離れたあとは、銀閣寺の完成を見ることなく亡くなった

義政は、応仁の乱が終わってからも、政治の実権を握り続けようとしましたが、最後には息子の義尚との関係も悪くなりました。

そして、義尚が遠征中に亡くなったことで、また政権を握ろうとしたのです。

しかしながら、ちょうどそのころに、脳卒中の後遺症に苦しむことになります。

義政は、最後まで政務を行おうとしたのですが、病気には勝てませんでした。

銀閣寺の完成を見届けることなく、その生涯を病床で終えたと言われています。

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