沖田総司(おきたそうじ)は、実在の故人です。生没は【1842年~1868年(享年:27歳)】と言われています。
史実上の性別は「男性」。
沖田総司という人物
新選組の一番隊組長。
たぐいまれなる武の才能を持ち、剣術に関しては師匠の近藤を超えるレベルでした。
反面、病弱で労咳(今でいう肺結核)を患っており、若くしてその生涯を病床で遂げています。
暗殺などを担う一番隊の隊長であるにも関わらず、沖田総司を批判している書物がほとんどないため、愛嬌があり人当たりがよい性格であったようです。
近藤勇と同じ「試衛館」の出身
沖田総司が幕末に活躍したきっかけは、浪士組加入からです。沖田はもともと、近藤勇が運営していた道場「試衛館」の門下生。
9歳のころから天然理心流に入門しており、のちに北辰一刀流の免許皆伝も得るといった、たぐいまれなる武の才能をもっていました。
永倉新八が、「沖田は土方・井上・藤堂・山南を竹刀で子供扱いしていた。近藤さんでも本気で斬りあったら負けていただろう」という言葉を残したほどだそうです。
試衛館の門下生への指導は厳しく、いざ剣のこととなると、荒っぽくて怒りっぽかったとのこと。
「刀で斬るな!体で斬れ!」との教えが有名です。
新選組結成後は精鋭として暗殺などを担当
新選組ができてからは、沖田は一番隊の組長になります。
一番隊は、新選組の中でも特に精鋭が集められており、暗殺や先発隊として前線に出ることが多い組織でした。
沖田は隊長にも関わらず、芹沢鴨の暗殺や池田屋事件の先発隊などとして、現場に出て斬りあうことが多かったようです。
沖田は「突き」を得意としており、平正眼の構えから繰り出す「三段突き」が得意だったと言われています。
一回の踏み込みで三発の突きが飛んでくるといった、普通では考えられないスピードだったとのこと。
一瞬で勝負を決めなければならない暗殺の場では、突きの速さが重宝されたのかもしれませんね。
冷酷な性格かと思いきや実は人当たりがよかった
暗殺を得意とした沖田総司は、岡田以蔵(人斬り)のような思想のない残酷な殺戮マシーンだとして非難されることもありました。
しかしながら、実の性格は、冗談を言ったり、いつも笑っていた陽気な人物だったと言われています。
屯所界隈の子供たちと遊んでやるような一面も見せていたそうです。
また、近藤勇や土方歳三を酷評していた西村兼文が、沖田についての批判を残していなかったことから、敵対者以外には人当たりのいい人物であったことがうかがえます。
幕府滅亡期には病状が悪化し生涯を閉じる
第一線で活躍していた沖田ですが、労咳(肺結核)が悪化し、鳥羽伏見の戦いには参加できませんでした。
また、幕府滅亡後に新選組が改名した組織「甲陽鎮撫隊」で戦う意思はあったものの、病に伏せて、戦地に向かう近藤勇を見送ったそうです。
ちなみに、近藤勇はその後捕らえられ、斬首されるのですが、沖田は近藤が亡くなったことを知らないまま、病気で亡くなったとされています。
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