徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、実在の故人です。生没は【1837年~1913年(享年:77歳)】と言われています。
史実上の性別は「男性」。
徳川慶喜という人物
日本で最後の将軍(幕府の系譜)。15代目。
攘夷(日本から外国を追い出せという考え)に疑問をもち、日本の開国に尽力した人物です。
もともと将軍職を継ぐことに乗り気ではなく、「将軍をやらない!」と言っていました。さまざまなしがらみから、結局は将軍の仕事をすることになりましたが……。
本人がいないところで勝手に争いがおこり、戦争をさせられるなど、「周りに巻き込まれる星」に生まれた人でもあります。
争いから離れたあとは、多種多様な趣味を楽しんだとのこと。
幕府の仕事を行いながら、朝廷に開国を勧めるがうまくいかず…
徳川慶喜は、将軍になる前「将軍後見職」という役職を与えられ、幕府の仕事をしていました。このころに、松平春嶽と「文久の改革」を行っています。
そのころ日本がどのような状況かというと、鎖国を行っており、攘夷(外国を排除すべき)の思想が主。
慶喜は、この「攘夷」に疑問を呈し、日本を開国したほうがよいのではないか、と考えていました。
天皇に対しても、「開国したほうがいいんじゃないの?」と伝えています。周囲からの反発などに巻き込まれ、うまくいきませんでしたが……。
慶喜も、朝廷には逆らえず、横浜港の鎖港などを行っています。これも、周りのしがらみに巻き込まれたため、やむを得ず行ったとの説があるそうです。
禁裏御守総監督に就任後「禁門の変」を契機に、開国に向けての道を進む
不本意ながら攘夷活動をしていた慶喜ですが、長州藩軍を攻撃した「禁門の変」をきっかけに、「尊王攘夷派はおかしいぞ!」という考えが固まります。
※長州藩は、尊王攘夷派の確たるもので、幕府を滅ぼそうという考えが強かったそうです。
慶喜は、「日本は開国すべきだ!兵庫も開港しましょう!」と朝廷に直談判するなど、熱いところもありました。
結論、当時は受け入れられていませんが。
将軍職としての徳川慶喜
最初は将軍になるのを嫌がっていた慶喜ですが、周りからの(半ば強引な)推薦もあり、15代目将軍として就任します。
将軍就任後の慶喜はというと、朝廷に対する敵意は無いようでした。もともと争いが好きではないという性格からかもしれません。
朝廷に弓を引くのではなく、あくまで話し合いによって朝廷を説得しようという感じです。
将軍になった慶喜は、対立関係にあった小栗忠順らと連携して「慶応の改革」を行っています。
そのほか、実の弟である徳川昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど、欧州留学にも積極的に力を入れるように。
将軍になってからも兵庫の開港の件は忘れず、朝廷への説得を続けます。
根気強い説得が功を奏し、兵庫開港に反対していた四候会議(薩摩・越前・土佐・宇和島)を解散させ、のちに兵庫の開港に成功しました。
ただ、この兵庫開港は尊王攘夷派の大きな反発を生み、慶喜を失脚させる原因となったのです。
大政奉還と王政復古の大号令
幕府に多大なる不満がある藩(おもに土佐・薩摩・長州)は、「政治をするのは朝廷だ!幕府の政治を朝廷に返せ!」といった文書を、慶喜送ったりもしました。
これら討幕派に勢いがあると見た慶喜は、「放っておけば自分も討ち取られてしまう」と考え、「大政奉還」を行います。
「大政奉還」は、「幕府に委任されていた政治を朝廷に返しましょう」という意味です。
ただ、大政奉還は、体面上行ったにすぎず、実権は幕府にあり続けました。
ここで黙っていなかったのが、かの有名な西郷隆盛です。
西郷隆盛は岩倉具視らと連携して、慶喜を排除した新政府樹立宣言「王政復古の大号令」を出し、新政府が発足します。
1868年1月3日の出来事でした。
慶喜がいない場所で争いが起こり「戊辰戦争」が勃発
さて、王政復古の大号令により将軍として実権がなくなった慶喜は、またも周りに巻き込まれます。
慶喜本人がいないところで、薩摩藩が旧幕府を挑発したのです。これに腹を立てた旧幕府は、薩摩藩亭を焼き討ちにしました。
戊辰戦争の始まりです。慶喜、またもや巻き込まれ(かわいそうに)。
慶喜はヒートアップしている旧幕府軍を止めることができず、半ば仕方なしに鳥羽伏見の戦いに赴かされます……が、慶喜は逃亡。
よくわからない状況で始まった戦争のため、慶喜は最初から朝廷に歯向かう気はなかったとの説があるそうです。
天皇に歯向かって逃げた(巻き込み事故)後は、隠居を経て晩年をエンジョイ
巻き込まれ事故とはいえ、客観的にみると「天皇に歯向かって負けて逃げた」という評価の慶喜は、当然、政治の世界にはいられません。
命は取られなかったものの、隠居を余儀なくされます。官位がなくなった後は、各地を転々としつつ謹慎しました。
いずれ謹慎は解けるのですが、その後は静岡に移住して趣味の世界に没頭したそうです。
狩り・囲碁・洋画・写真・ビリヤード・サイクリングなど、日本の伝統的なものから海外から渡ってきたものまで、多種多様だったとのこと。
自動車が日本に渡ってきたあとは、認可を受けて各地を乗り回すといった一面もあり、老後の余生をエンジョイしていたそうです。
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