北条政子(ほうじょうまさこ)は、実在の故人です。生没は【1157年~1225年(享年:69歳)】と言われています。
史実上の性別は「女性」。
北条政子という人物
鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻。父の反対を押し切って、頼朝と結婚。
頼朝の死後は、出家しましたが、相次いで子が暗殺されています。
その後、藤原頼経の後見となり、幕政の実権を握ったため、尼将軍と呼ばれるようになりました。
親の反対を押し切って源頼朝と結婚
平治の乱で流刑されていた頼朝と出会ったのが、北条政子の人生の始まりとも言えます。
北条家は、平家の流れをくむ家柄だったため、結婚する際は父(時政)に大反対されました。
しかし、結局は政子に押されて結婚を許したそうです。
さて、源平合戦に敗れて流刑の身だった頼朝ですが、平家打倒のために、戦争へ引っ張り出されることに。
何度か敗走はしたものの、粘り強く戦った結果、鎌倉を拠点に関東の制圧に成功。
ここからが、鎌倉幕府の時代が始まりです。頼朝は鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになります。
御台所とは、「大臣や将軍の妻」という意味があったそうです。
頼朝が他の女を可愛がると激怒 嫉妬深いと後世に伝えられてしまう
御台所となった政子ですが、頼朝とは妾がらみの痴話喧嘩が多かったらしく……二人目の子を妊娠していたときに、頼朝が妾を可愛がったことで激怒。
妾を追い出してしまったそうです。
当時、武士が妾の間に子をもうけたりするのは普通のことでしたが、政子はこれを許しませんでした。
一連の出来事により、政子は頼朝の妾から恐れられ、嫉妬深い恐妻というイメージがついたそう。
次女が生まれる際にも、頼朝が他の妾に手を出していたのですが、政子の嫉妬を恐れて身を隠す人がいたほどのレベルだったらしいです。
頼朝と娘(大姫)に先立たれ、出家して尼になる
政子は、着々と子孫を出産したのですが、最愛の娘、大姫が病で亡くなります。
あとを追うようにして、2年後に頼朝も急死。
深い悲しみに暮れた政子は、出家して尼になることを決めたのです。
頼朝死後の幕政は、頼家が行っていましたが、独裁傾向にあり、これを阻止するために、十三人の合議制が定められるほどでした。
頼家は、他家の妾を奪ったり、蹴鞠で遊興したり、やりたい放題でしたが、政子がこれを抑制していたとされています。
最後には、政子は頼家を出家させ、幽閉までしました。
将軍は代わり、3代目を実朝が努めますが、この際に、政子の父(時政)とその妻が、政権を独占しようとします。
これに感づいた政子は、実朝を連れ戻し、父(時政)を伊豆へ追放させた、とのこと。
実朝はその後、政子のサポートもあってか、右大臣まで昇進しますが、実朝に不満を持つ甥に暗殺されてしまいます。
政子は、夫のみならず、次々と子を亡くしてしまうんですね。
子たちを失ったあとでも、幕府の意志を継ぐ
幕府の意志を継ぐものとして、政子は義時と一緒に「皇族を将軍にしてほしい」と頼みましたが、皇族側がこれを拒否。
なかば仕方なく、藤原頼経を時期将軍として迎え、政子はこれの後見人となります。
当時頼経は2歳児だったため、実権を持つ政子を「尼将軍」と呼ぶようになったとか。
承久の乱で上皇が幕府に攻めたことで、政子は皇家へ弓を引きます。
攻め入る際の会合で「頼朝に恩を返しなさい」と、武士たちにはっぱをかけたことは、有名です。
軍を率いて、ついには、皇族軍を敗退させているので、「カリスマ性も備えていたのではないか?」など、いろんな憶測がされているようですね。
流刑人と恋に落ちたり、子を続々と亡くしたり、最後には将軍の役割をしたり……いろいろあった政子の人生ですが、最後は病死したと歴史に記録されています。
コメント